山吹は休憩室を後にして病院の外に出る。
そこはすっかり暗い。星空も見えない曇り空は重たい空気を宿している。
まだまだ暑いんだな。そう思った。
珍しいな。帰り道に会うなんてな。
お前こそ。珍しく遅くまで仕事をしてるなんてな。
まぁ退院が立て込むとな。まぁ良い事だ。
そうだな。と山吹は返す。そう言いながらきっと、この友人は自分の気持ちなど分かっているのだろうと思った。
あの人は療養型病院へと転院が決まった。今後も医療的処置が必要だからだと。
そうか。何処にも行けなくなるよりは良い事かもしれないな。
回復期病棟へ送り出し、リハビリの進捗を楽しみにしていたその高齢の女性は、新規に脳梗塞を発症した。骨折の治癒は良好だったが、たった一度の肺炎で、長すぎた臥床期間と広範に広がる梗塞巣は彼女から意識を容易く奪った。
こういう時はどんな表情をして良いのか分からなくなる。
全て自分でやれば良かったと考えているだろう。一人ではそんなに多く患者を観る事は出来ないよ。
それは知っている。院内で起こる合併症が治療の過程で生じる事は零にはならない。だから零にしなければならない。
そうだな。その為に俺達は努力しているじゃないか。
僕達はな。
ふん。と山吹は鼻を鳴らす。進藤は分かっている。一般病棟や急性期で病態が落ち着いていても、その次の回復期という段階で合併症を引き起こす事もある。それについてこの困った友人がどう思っているかは見れば明らかだが、本人は隠しているつもりなのが可笑しい。
回復段階での合併症は避けられない事もある。そして全ての病院が急性期治療を行える十分な設備がある訳でも無い。
だけども全てのセラピストは学校で急性期のリハビリテーションを学ぶ。重症患者のリハビリテーションが出来なくても更に学ぶ事は出来る!
山吹の挙げた声は暗い夜空に吸い込まれている。反響もなく余韻を残す声に進藤は一度目を閉じる。
大なり小なり皆努力はしているよ。まぁ全てのセラピストが、とは言えないが。
努力だけしても意味が無いだろう。
意味はあるよ。それはお前は十分知っているだろう。
それは・・・
山吹は休憩室の風景を思い出す。目の前には白波百合が居る。
態とらしく明るく振る舞う、今日の休憩室での風景もまた流れた。
まだまだ教える事は沢山あるけどな。
そりゃそうだろう。まだ二十歳そこそこだ。学ぶ事は沢山ある。俺達もまた同じだ。
そうだな。と山吹は返す。雲の合間に月が見える。雲が流れて始めてその月が欠けている事を知った。
それに今日は重要な事を教え忘れた。Dダイマーという検査値は血栓の可否に必要な検査データの一つになる。その確認を怠るな。と
珍しいな。また教えてやると良い。
アイツがちゃんと今日の説明を覚えていればな。
それは大丈夫だろう。
月の光が辺りを僅かに明るくする。先ほどから後ろで聞こえるコソコソ話もまた月明かりと共に彩られる。
なぁ。石峰優璃(せきみね ゆり)は今頃何してるんだろうな。
お前の・・・あの騒々しい指導者だな。変わらんだろう。
行き先も言わずに居なくなったからな。今度会ったら、僕が論破して差し上げようと思う。
できたら良いな。無理だろうけど。
まだ分からんよ。あれから僕も成長をした。
そうだな。後輩に毎日指導してるなんて知ったら驚くだろう。
そんな事は無い。と山吹は返す。進藤は笑みを返す。
さて後ろでコソコソしているあの連中はどうしようか。
アレで隠れているつもりなんだから可愛いもんじゃないか。
二人が同時に闇にうごめく三つの陰を振り向くと、うひゃぁ。と闇夜に声が響く。
ちょっと百合!そんな声だしたらアカン!見つかってしまう!
ごめんー!でもきっと大丈夫っす!
・・・もう手遅れだと思うけどな。
山吹は背中を丸めて大きくため息を吐く。進藤は再び笑みを浮かべる。
『努力は報われずとも無駄には成らないよ。』
山吹はかつて聞いた石峰優璃の言葉を思い出す。
欠けた月は雲の間より地表を照らす。不完全ではあるけれど確かに照らしていた。
山吹薫のメモ 3
・全ての回復期病院で、十分な急性期医療が受けられる訳ではない。
・全てのセラピストが急変後に急性期リハビリテーションが行える訳ではない。全てのセラピストが努力している訳ではない。
・だけども努力は報われずとも無駄には成らない。
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